海底線まめ知識

おもしろ逸話第20話: 「大北電信会社出現前後における日本周辺の状況」 その2

海底線陸揚げ権獲得をめぐる各国の対日支交渉

 前述したこの長大な電信線をかかえたロシア政府は、1860年に清国から沿海州一帯の領土を割譲させ、その中のウラジオストックに、新たに軍港を構築したので、このあたりを基点として、日本と清国の沿岸各都市への通信連絡の設定に大きな関心を示しはじめた。

 1867年(慶応3年)8月には、函館駐在領事ビュッツォー(Eugene de Butzow)を通じ、海底線連絡建設のための陸揚げ交渉を申し入れてきた。内憂外患、大政奉還直前の弱体化していた徳川幕府は、その必要性を認めるだけの見識はあったが、到底これに対応するだけの余裕をもたなかった。1870年(明治3年)4月、明治政府外務卿 沢宣嘉に対して、ロシア政府は函館駐在領事タラフテンベルグ(S.Trakhtenberg)を通じ、再び同じような申入れをしてきた。これら2回とも、ロシア政府はロシア商社に海底線の建設を行なわせるのであるといっていた。このロシア民間商社というのが、実は大北電信会社であることは、のちにくわしく述べるとおりである。

 一方、アメリカの動きについてみると、アメリカ議会ならびに通信企業家が、日本を目標として太平洋横断海底線の計画をすすめてきたのは1870年の対日交渉を第1回とするが、これは、大西洋横断海底線計画に参画したギスボーン (F.N. Gisborn)を発起人とするもので、1870年6月、駐日アメリカ公使デロング(Charles. E. Delong)から、やはり沢外務卿に書面で申出があったのである。これは、長崎と横浜を陸揚地とする案で、翌1871年に第2回の交渉があり、このときは、コリンズほか5名が連署した申請書を提出し、函館または横浜に陸揚げすることを目途とするものであった。沢外務卿からアメリカ公使への回答は、函館に陸揚げすることは承認せず、横浜または長崎に限ることを明らかにした。

 第3回は1880年(明治13年)、サイラス・フィールド自ら来日し、外務卿 井上馨と交渉をした。このときの井上外務卿の回答の要旨は、日米合弁案ともいうべき内容のもので、日米両国政府が20年間 年4分または5分の利益保障をすること、陸揚地の函館案は根室に変更すること、建設費は1,000万円と見積もったが、日本側も負担するのか否かはっきりしなかった。

 この回答は、駐日アメリカ公使ビンガム(John A . Bingham)に渡された。

 アメリカにおいては、このほか、度重なる対日太平洋横断海底線計画がアメリカ議会に上呈されたが、のちにも述べるように、上院と下院との間に、企業家の複雑な動きが反映して、結局、両院意見不一致で、1906年(明治39年)まで日米間海底線の実現をみなかったのである。

 ここで、隣国支那を中心とする情勢を一瞥すると、1843年の南京条約の翌1844年に締結された米支修交条約では、支那においては、他国人のmonopoly から生ずるアメリカ人に対する不利益な待遇をいっさい承認できないという、アメリカ的体質そのままをうたった原則が定められた。また、1858年の天津条約では、いわゆる最恵国待遇の規定、すなわち支那において最も有利な待遇を受ける国民と同じ待遇をアメリカ国民にも与えられるべきことが定められた。後年、しばしばアメリカ政府によって宣明された対支2原則、つまりequal opportunity とopen door policy が、この中にすでに明確に根をおろしていたのである。

 このアメリカの理想は、1870年から1871年にかけて、英国のイースタン系電信会社と大北電信会社が香港と上海に海底線を陸揚げし、有利な通信利権を獲得したことによってぐらつかせられた。

 アメリカ海軍は、極東への通信線が国家発展上きわめて重要であることを認め、すでに1870年のはじめに、サイラス・フィールドに対して太平洋横断海底線敷設についての意見を求めた。フィールドは、詳細調査の結果、アリューシャン、ベーリング経由の北回りとサンドウィッチ島(ハワイ)回りの2ルートを示唆した。

 北回りは、海洋区間が短く、アリューシャン群島の約100個の島を利用すれば、水深30尋以上の海洋に出ることなくしてベーリング海につらなり、ベーリング海においても、島を利用することによって、長距離の海洋区域を経ずしてカムチャッカにつらなるのであるが、雪と氷原、ことに海浜に渡渉困難のところがあることが明らかにされた。

 ハワイ回り、は、ハワイ、フィリピン等の他国領土を経由する問題があるほか、距離もアリューシャン回り7, 000海里に対して約1万海里となり、投資額もそれだけ大きくなるわけであるが、海軍准将ポーター(David D . Porter)はハワイ回りを支持した。

 1873年には、アメリカ西海岸から日本への海底測量費が議会により承認された。しかし、これと見合う海底線敷設についてはなんらの経費も計上されず、なぜか具体的な論議は進展せず、加うるに、間もなく海底線問題の検討は議会から大統領以下政府当局者のほうに任されてしまった。

 1881年初頭に、大北電信会社は、上海・天津線建設を、支那政府のために軍事的価値を伴うものとして認識させ、その建設工事を引き受ける代償として向こう20年間の全支那領土における対外海底線の敷設および運用の独占権(3年後には、イースタン・エクステンション会社もこの独占権を共有した)を獲得したことを、在北京アメリカ公使アンジェル(James B. Angell)が探知して、本国政府と緊密な連絡をとりながら支那政府に抗議した。この独占権の付帯条件として大北電信会社は、20年間支那政府とその在外大公使館との電報を自社線上においては全部無料で取り扱うことに同意した。

 支那政府の外交部長は、アメリカの抗議について清朝の太守(Viceroy)と相談し、Viceroy は、度重なるアメリカの抗議に耐えかねて、アメリカとの間に海底線を敷設することを相談してもよいところまで譲歩した。しかし、アメリカ国内の情勢は、これに即応し海底線の敷設を具体化するために必要ななんらの準備もなかった。わずかにこの数年前にモレノ(C. Caeser Moreno, イタリア系)なる人物ほか数名の太平洋海底線敷設案の計画倒れがあったが、これはアメリカの対支政策から出たものではなかった。

 その後国内与論は、海底線よりもっと有利な産業方面に資金を使うべきであるという議論が優勢となったため、1890 年代まで、極東への海底線問題はたな上げされた形となった

(本文は「海底線百年の歩み」海底線施設事務所編より引用しました。国名、事象の呼称についても原文のままとしてあります)


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