海底線まめ知識

おもしろ逸話第18話: 「開拓時代編」 その1

今回からは各々の特徴的な時代について述べます。

■開拓時代

明治3年(1870)〜 明治26年(1893)

わが国の海底線通信は海外電信に始まる。すなわち明治3年デンマークの大北電信会社は、わが国における海底線の陸揚げ権を獲得し、翌4年、長崎〜上海間、長崎〜浦塩間に海底線を敷設し通信を開始した。ここに(1)日支間、(2)日・支と欧米間に海外通信の道が開かれた。

明治15年に京城事変が勃発し、わが政府は朝鮮との間に海底電信線敷設の必要を痛感し、大北社と交渉の結果、明治16年、同社をして日本〜朝鮮間(肥前呼子〜壱岐〜対馬〜釜山)に海底線1条を敷設せしめ、大陸進出の第一歩を踏み出した。

このとき、大北社はかねて望んでいた長崎〜上海間、長崎〜浦塩間海底線各1条の増設を行なっている。

明治24年に国内電信の自主権確立のため、前記釜山線のうち、呼子〜壱岐〜対馬間の海底線を買収し、壱岐、対馬は完全に日本電信系に編入された。

また、海底線による外国電報の国内取扱いは、明治11年年、電信中央局の設置を機会に、大北社から完全にわが政府の手に移り工部省直轄となった。

ひるがえって国内電信の海底線をみるに、大北社の長崎における海底線と連絡するため着手した東京・長崎線には、赤間関海峡(関門海峡)を海底線で横断することとなり、明治5年、わが国最初の海底線1条が敷設された(翌6年東京〜長崎間完成)。

東京・長崎線と並行して建設工事が進められていた東京・青森線は、明治7年に完成した。当時開拓使所管の函館・札幌線も完成したので、この両線を結ぶため、明治7年、津軽海峡に海底線2条を敷設し、ここに九州から本州を縦断しさらに北海道へ至る全国電信系の背骨ができあがった。

西南の役の際には、丸亀からも出兵することとなり、明治9年、備讃海峡に邦人により初めて敷設された海底線を、急逮建設した陸線に接続し、岡山・丸亀線を開通した。

また、ここにおいてわが国の四大島、すなわち本州、九州、北海道、四国が海底線により完全に結ばれたわけである。

その後商工業の隆盛とともに、電信の効用もまた一般国民の間に知れ渡り、政府は電信事業拡張に力を入れ始め、明治14年、献金置局を許してこの一助とした。

明治9年から15年までに、山陰道、北海道、奥羽地方の枢要地間の電信連絡が成り、15年4月1日には開拓使管理の北海道内電信線が工部省電信局に移管された。のち10年を経た明治25年までに、電信線は着々伸長し、ほぼ日本全島を囲繞(いにょう)するに至った。

これに対し、明治15年までに敷設された海底ケーブルは短距離区聞のものばかりで、その条数はわずか10条で、ケーブル線長累計57海里にすぎなかった。

明治16、17年は幣制の改革により、一時物価暴落して商工業の不振をきたした。電信事業もその影響を蒙り、明治16年以降数年間、海底線の敷設は中止された。

明治21年、政府は三等局に電信事務とその経営を請け負わせ、また鉄道電信をして一般公衆電報をも取り扱う制度を設ける等、電信の普及に努めた。一方、衰頽(すいたい)した商工業も徐々に景気を回復し、また人文大いに進歩して電信事業拡張の必要もようやくその度を増してきた。明治23年以降は再び積極方針をとり、線路の新増設、局所の設置等が行なわれ、時運の隆昌に随伴して電信の需要も年とともに高まった。

海底線も明治23年から敷設が再開され、明治26年までに敷設されたもの7条で、この年末の線長合計は268海里(496km)、心線延長は333海里(617km)であった。

この間、諸外国における海外通信の発達は特にめざましく、1882年(明治15年)には海底線保護万国連合会議が開催され、わが国は明治17年にこれに加盟した。

外国通信が発達するとともにヨーロッパ各国政府は電報の送受方法、符号、料金等の協議決定の要に迫られ、すでに1865年(慶応元年)には万国電信会議を創始している。ちなみに、わが国が万国電信条約に加盟したのは明治12年である。

 1.海底ケーブルの新知識輸入
風説書(ふうせつがき)―嘉永5年(西暦1852年)

西暦1851年(嘉永4年)世界最初の海底ケーブルがドーバー海峡に敷設されたが、早くも翌嘉永5年に、その情報が長崎の和蘭商館長(和蘭の東印度株式会社日本支店長)すなわち甲比丹(かぴたん)から、長崎奉行経由で幕府に提出された和蘭風説書によって報告されている。

和蘭の風説書とは徳川幕府の鎖国時代[寛永13年(西暦1636年・徳川3代将軍家光)から安政元年(西暦1854年)までの218年間〕に和蘭船が長崎に来航するつど、同船が持ちきたった世界、特にヨーロッパの情報を長崎和蘭商館長が長崎奉行に報告し、これを和蘭通詞(翻訳官)が和訳して、長崎奉行から幕府に提出していた文書である。これを和蘭風説書と呼んでいた。

この風説書は徳川3代将軍家光(元和9年・西暦1623年)のころから、毎年提出されていたもので、当時、長崎奉行はじめ幕府の重臣たちはこの報告書から世界の情勢を知り、新知識を摂取していた。

また和蘭商館には所属の医師がおり、日本人に医学その他を伝えていた例が多い。商館長やこれらの医師のなかには学者が多く、ある意味で商館は、日蘭貿易の場であるとともに、西欧科学伝来の窓口でもあったといえる。いうまでもないが、このように長崎は古くから西欧文明の輸入港として、特に鎖国時代には唯一の海外の窓口として存在していたのである。

次に当時の国内情勢をみると、1837年(天保8年)すなわちMorse電信機が完成した年には、米艦モリソン号が浦賀に来航、通商互市を求めてきたが、これを撃攘した。また北辺には露船が出没し、南海には英船がしばしば姿を現わし通商を求め、時には掠奪も行なっていた。

また1840年(天保11年)には清国が阿片戦争に敗れ、その結果1842年に香港を英国に割譲した。これらはすべて風説書によって事細かに政府に報告されていた。

一方、英、米、露、仏の船艦はますます頻繁にわが沿海をかすめ、かくして海防の急務であることをわが朝野は痛感し始めた。

1854年(安政元年)には米国の強硬な開国要求によって200年余の鎖国政策が解かれ、国論は懐夷、尊王と入り乱れて沸騰していた。

こうした維新前夜の内外騒然たる情勢のうちに伝信機がもたらされ、特に長崎の海軍伝習所では海防、兵備の研究から、電信機の研究もまた盛んに進められていった。かかる時代に、風説書によって次から次に海底線の新知識とその発達の状況を知った遠眼かつ俊敏であった幕府重臣たちは、海国であるわが日本にとって海底線政策がいかに重要なものであり、将来いかに活用すべきかに頭を悩ませていたことが想像される。
さて、嘉永5年(1852年)の風説書の中から海底ケーブルに関係あるものをここに抜粋しておくこととする。
一.先頃 エケレス国とフランス国と迅速の通路を開き候。右仕組は、エレキトロ・マグネティーゼ・テレガラーフ(エレキトルの気にて合図致し候仕掛)に有之、海底を通じ両国往来致し候
一.右通路に用ひ候器具は、二十四 エケレス・メイル、重さ 二百トン有之候。此の仕掛の合図にて、暫時の間にフランス国より、エケレス国の都市に通報致し候

この風説書は、前述のとおり、世界最初の海底ケーブルが英国海峡に敷設された西暦1851年の翌年幕府に報告されたもので、海底線に関するわが国最古の文献である。

その後、嘉永6年(1853年)の風説書には英国〜和蘭間に英〜仏間同様の趣向により、海底線の敷設が開始されたことが述べられている。

また安政元年(1854年)の風説書には英国〜和蘭間の海底線が完成し、その長さ7海里と記されている。上記の和蘭風説書のほか、次の古文書等にも海底線に関する記事が散見されるので記しておく。

・和蘭国王から幕府に対する電信機贈献文書
・佐藤秀長著 「米行日記」

和蘭国王からの電信機贈献文
長崎御奉行所御筋証之封書
横文字和解
寅 安政元年閏七月朔日
内密
長崎御奉行所水野筑後守様江

阿蘭陀 かぴたん 私儀

謹而申上候義有之則左之通
一.(省略)
一.和蘭当国王父之代にも、日本国帝に対し通信の徴を顕し、日本帝家の徳沢に浴せんと欲して申上候事共も有之、右父代同様弥以下不相変様有之度、於当和蘭国王も奉希候
一.日本帝政府に於而既に御承知相成居候事と奉存候得は共、奉申上候は、近世の発明にて、最大の弁利の工夫を以って、今専ら欧羅巴、亜墨利加、既に印度辺にも頻りに合図の趣向出来、遠隔の国土も恰も無きが如き工夫に即時通じ、至極駈引勝手宜相成候事に御座候
一.右発明の儀に付ては、追々之別段風説に申上置候通り之義にて、普く海岸を経遠隔の国々江至極急速に事通じ候義相叶候事に御座候
一.(以下省略)
右之条々、謹而奉願上候

かぴたん どんくるきゆるしゅち

右之通和解差上申候以上
寅閏七月朔日

西 平兵衛
楢林栄七郎

上文中「右発明の儀に付ては、追々之別段風説に申上置候」とは前記の風説書を指したものと思われるが、これらの風説書によって、幕吏は和蘭から電信機の贈献される以前に、ある程度の知識を電信機に関し有していたことが分かる。

佐藤秀長著 「米行日記」
幕府は万延元年(1860年)日米通商条約批准のため、正使として外国奉行新見豊前守をアメリカから特に送迎船として回航された軍艦ポーハタン号に乗船派遣した。佐藤秀長はこのときの見聞を「米行日記」と題して報告したが、その中で海底線に関し、次のごとく報告している。

…嘗て聞く北亜米利加の北部を英国が之を領し、本国より二千五百余海里の海底にテレガラーフを通じ、音信を通ずると言へり。……

(注)これは西暦1858年から着手され、当時工事続行中の大西洋横断海底ケーブルの敷設について述べたものだが、この横断は幾度か失敗ののち、1866年(慶応2年)にいたり完成する。

これらのほかに、福沢諭吉著「西洋事情」がありますが、当コーナーの第二話で先に取り上げてありますので、ご参照願えれば幸いです。

(本文は「海底線百年の歩み」海底線施設事務所編より引用しました)

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