海底線まめ知識

第17話: 「わが国海底線通信の沿革」  ―昭和時代―

次に、戦後における海底線の新増設計画とその実績について、前回に引き続き、今回は日本電信電話公社発足後の第1次5カ年計画(昭和28-32年)以降について述べます。

昭和27年8月、日本電信電話公社発足後、第1次5カ年計画(昭和28-32年)で、農山漁村における電話サービス向上が強くとり上げられ、無電話地域解消および稀小電話地域への電話普及対策が講ぜられた。特に昭和28年の「町村合併促進法」の施行によって、電話区域合併にいっそうの拍車がかけられた。そのうち、離島地域に対しては、

イ.海底ケーブル敷設による公衆電話回線の作成
ロ.市内多対ケーブルによる離島交換局の区域合併が行なわれることとなり、第1次計画でその緒につき、第2

次5カ年計画後もひきつづきこれらの施策が大幅に実現されている。
ちなみに、昭和28年度から昭和44年度にわたる17年間の新増設ケーブルからその実績をみると、次のとおりである。


(昭和28-44年) (昭和20-27年)
1年当り敷設条数 33条 13条
1条当りの線長 4km 13km
1条当りの心線数 28心 7心

上記のとおり予想以上の成績をあげ得たのは、電電公社発足後、研究開発された次の技術の結果であって、これらは海底線事業にとっての一大革命といえる。

イ.旧型、新型PE海底ケーブルの採用
ロ.埋設工法の採用。
ハ.防蝕ケーブルの採用

新型海底ケーブルの研究は昭和27年から始まり、約5年間、特別仕様書によって製造されたケーブルを全国10数個所に敷設し、その成績を看視した。
これと並行して鎧装鉄線損耗に関する調査が行なわれ、電蝕による理論がとり入れられ、防蝕ケーブルが誕生した。
一方、これと同時に海底ケーブル埋設工法が確立された。
その結果、海底ケーブルの敷設方針として、(1)埋設できる個所には埋設ケーブルを使用してこれを埋設する。
(2)埋設のできない場合は防蝕ケーブルを使用する。水深250m以上は防蝕深海ケーブルを使用する、ことになった。
ここでPE海底ケーブルについて簡単に述べることとする。

イ.旧型PE海底ケーブル
従来の構造の海底ケーブルは、絶縁体GPの代りにPEを使用したもので、昭和28年度から全面的に採用した。

ロ.新型PE海底ケーブル
これにはPE新型海底ケーブルとPE-P新型海底ケーブルの2種類がある。PE新型海底ケーブルは、PE絶縁、クワッド充実型で、導体大、対数小、主として市外用であり、PE-P新型海底ケーブルは、PE絶縁、PEシース型で、導体細く、また対数多く、市内用である。また、鎧装構造の点からおのおのに、埋設用には亜鉛メッキ鉄線鎧装が、防蝕ケーブルには亜鉛メッキ鉄線に1mm厚のPVCを被覆した直径6mmの防蝕鉄線鎧装が施され、また防蝕深海ケーブル(PE-P型にはない)は、直径2mmの亜鉛メッキ鋼線に1mm厚のPVCを被覆した直径4mmの防蝕鋼線で鎧装されている。

PE新型海底ケーブルの実績
最初の敷設昭和31年、愛媛県戸島〜嘉島間、0.65mm20対PE-P防蝕海底ケーブル
敷設実績昭和31-44年まで、線長約150km(市内PE-P海底ケーブル累計線長)を敷設
主要ケーブル昭和33年 荒川越、0.5mm800対ユニットPE-P水底ケーブル
昭和36年厚岸〜真竜間、0.5mm100対ユニットPE-P埋設ケーブル


防蝕ケーブルの実績
昭和26年  広島県大崎下島〜豊島間に調査用特殊ケーブル敷設
昭和29年  PVC被覆鉄線仕様書制定
昭和31年  充実型クワッド型市外PE海底ケーブルおよび市内PE-P海底ケーブルに適用し、防蝕海底ケーブルと呼ぶこととなる。
昭和34年  PE海底ケーブル仕様書に二重鎧装浅海線およびIrish浅海線を追加
昭和37年  PVC防蝕鉄線の構造変更(ケーブル重量を大きくするため)


さて、この間、昭和28年、洞海湾(戸畑〜若松間)に市外通話用として0.65mm200対PE絶縁鉛被海底ケーブル(亜鉛メッキ鉄線二重鎧装)が埋設されたが、これはわが国において埋設機を使用した最初の工事であった。
下って昭和44年、噴火湾砂原〜室蘭間に日本最初の海底線中継器付18mm同軸ケーブルが新鋭敷設船津軽丸によって敷設されたが、この間、昭和40年には備讃海峡にわが国最初の同軸海底ケーブルが敷設されるなど、技術の躍進ぶりには目ざましいものがあり、これらの詳細は後日に譲ることとする。

最後に対外通信関係であるが、まず昭和18年から逓信省が好意的に管理していた大北電信会社の長崎局通信装置は、昭和23年11月に復旧し、長崎〜浦塩間通信が再開された。同局の運用は、その費用を会社が負担し、逓信省がこれに当たることとなった。この業務は昭和24年、逓信省から分離した電気通信省によってひきつづき行なわれた。

その後、昭和28年、国際電信電話会社が設立され、国際電気通信業務は同社に移り、民有民営となった。したがって、長崎・浦塩線の長崎における運用は同社が行なうこととなった。昭和44年、直江津〜ナホトカ間477海里のトランジスター式海底中継器内蔵同軸ケーブル(日本海ケーブル)の開通により、約100年に及んだこの大北社長崎・浦塩線の運用も、ついにその幕を閉じるに至った。

一方・日米ケーブルをみるに、まず昭和35年、太平洋横断同軸海底ケーブル製造を当面の目的として、住友、古河、藤倉3社の共同出資により大洋海底電線株式会社が設立された。

これより先、昭和32年、日本電信電話公社によって太平洋横断海底電話ケーブル方式導入に関し討議が開始され、のちATTとKDD間で数次にわたる意見交換を行ない、昭和37年、両社間において太平洋横断ケーブルに関し建設・保守協定が調印された。これに基づいてATTは大型敷設船ロングラインズ号により日本〜ハワイ間に電話海底ケーブルを敷設し、昭和39年6月19日、日米間通話が開始された。

■海底線100年の発達段階とその鳥敵
わが国の電信事業は明治2年(1869年)に創業された。翌明治3年(1870年)には日本とデンマーク国間に結ばれた約定に基づいて、明治4年(1871年)、デンマークの大北支那・日本拡張電信会社(以下大北電信会社と呼ぶ)が、長崎・上海線、長崎・浦塩線2条の海底線を長崎に陸揚げした。ここにおいて、わが国海外電信が海底ケーブルにより初めて開始された。

明治5年(1872年)には赤間関海峡(関門海峡)にわが政府の海底線が初めて敷設され、東京・長崎陸上電信線の完成を待った(明治6年完成)。

電話事業は明治23年(1890年)に開業し、明治33年(1900年)に電話用海底線が同じく関門海峡に初めて敷設された。すなわち、電信用海底ケーブルはその後100年、電話用海底ケーブルは70年の長い道程を歩んできた。

ここにその海底線事業の歴史を述べるのであるが、まず主要事項につき年代順に記述し、事業全体の発展的過隆を把渥するよう心がけた。このため時代区分をいかにするかがきわめて重要な問題である。わが電信電話事業発達の歴史は、日本資本主義経済の発達過程と密接な関係にあり、なかでも海底線事業の成長発展の足跡は、政治、経済情勢と深く関わり、特にその大発展の契機となって大きな役割を果たしているのは、実に戦争にほかならないのである。

また、わが国通信事業の拡張予算も経済の発展を如実に反映している。しかしながら官営であるため、国家予算に束縛され、大拡張も思うように実行できぬ場合も少なくなかった。
これらを勘案して、時代区分を次のとおりとし、各時代には発達段階の特徴を表わす名称をつけた。

(時代区分) (名称)
明治3年(1870年)〜明治26年(1893年) 開拓時代
明治27年(1894年)〜明治36年(1903年) 自主的成長時代
明治37年(1904年)〜大正2年(1913年) 大拡張時代
大正3年(1914年)〜大正12年(1923年) 国産品使用時代
大正13年(1924年)〜昭和9年(1934年) 内外技術混用時代
昭和10年(1935年)〜昭和15年(1940年) 独創的発展時代
昭和16年(1941年)〜昭和20年(1945年) 太平洋戦争時代
昭和21年(1946年)〜昭和27年(1952年) 戦後復興時代
昭和28年(1953年)〜昭和44年(1969年) PE海底ケーブル発達時代

今回で「序論」を終え、次回からは各々の特徴的な時代について述べます。

(本文は「海底線百年の歩み」海底線施設事務所編より引用しました)


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