海底線まめ知識

第16話: 「わが国海底線通信の沿革」  ―昭和時代―

時代は戦後の昭和へ。海底ケーブル通信の復興には幾多の問題点がありました。

終戦後、第1に起きた問題は敷設船対策であるが、終戦当時、海底線障害修理・敷設工事用船舶として残存したものには、制式敷設船は1隻もなく、わずかに小型機帆船海光丸(157トン)と勢運丸(225トン)の2隻に過ぎなかった。したがって、満足な工事の施行は不可能なので、さらに釣島丸(海軍電纜敷設艇1,160トン、昭和16年建造、連合軍接収のもの)および王星丸(海軍徴用船641トン)を借り入れ運航した。王星丸は連合軍司令部の緊急要請により、内地〜北海道間ケーブルの修理を行なったが、これは終戦後初の修理工事であった。ついで旧軍用線の引揚工事に従事していたが、この修理の1年後に返却された。

大型敷設船がないため、戦後の工事はさまざまな困難に見舞われたが、この建造に全カをあげて努カした結果、ようやく昭和23年、戦後初めての制式敷設船千代田丸(1,850トン)の建造をみることができた。

王星丸は再び傭船されたが、障害発生も徐々に減少してきたので、昭和28年に解傭した。同年、釣島丸が電電公社所属船となり、敷設船は全部で4隻となった。こののち、短距離ケーブル工事施行用として活躍した小型木造機帆船の代船建造計画が進められ、

昭和32年瀬戸丸(213トン、海光丸の代船)
昭和36年天草丸(359トン、勢運丸の代船)

の両制式敷設船が建造された。また昭和44年には津軽丸(1,660トン、釣島丸の代船)が建造された。同船は中継器付海底電話同軸ケーブル敷設に適するよう設計され、最新技術の粋を結集して造られた世界の最優秀船である。

ひるがえって第2の問題は、海底線の不足対策であった。在庫海底線は戦争中ほとんど使用し尽され、また海底線製造工場の再建も遅れていたので、やむを得ず昭和22,23年にわたり、旧軍用線を請負工事で引き揚げ、回収して使用したが、鎧装鉄線が脆弱で障害が続発した。昭和25年ごろからはケーブルの生産も順調になってきたので、その後、引揚線の使用は中止した。

第3は未掃海区域における安全操業問題であるが、戦時中、日本軍および連合軍により設置または投下された機雷は、その数6〜7万個といわれていた。その掃海順位は、重要港湾に対する航海安全確保を第1目標としたので、ケーブル敷設海域は後回しとなり、やむを得ず、敷設船は大きな危険をおかして自カで、しかも独自の方法をもって掃海を行なった。この作業中、1件の事故もなかったのは幸いであった。

次に、戦後における海底線の新増設計画とその実績について述べることとする。

まず期間を2分し、今回は昭和21年から昭和27年度まで、次回は日本電信電話公社発足後の第1次5カ年計画(昭和28-32年)以降とする。

昭和21年以降3カ年計画で、罹災通信施設の復旧を計ったが、物価の値上り、物資不足等に阻まれ、5カ年計画に改訂延長された。しかしながら、たまたま経済安定本部において復興5カ年計画が樹立されたので、これを基礎とし、昭和23年以降5カ年計画を樹立し、その実行に移った。この5カ年計画では、第1に市外通信幹線路は有線、無線併用による整備拡充の方針がたてられ、この幹線の海峡横断には無装荷搬送海底ケーブルが敷設されることとなった。

第2に離島の無電話地域解消と市外通話の改善がとり上げられた。すなわち、

イ.300名以上の人口を有する近距離離島で通信連絡のない島嶼(49箇所)に通信施設を設ける。
ロ.産業が活発な離島へ市外線を増設する(市外通話待合時間2時間以上、72回線)。
ハ.海上2-3海里以内の離島通信に関しては、電話加入区域の合併を行なう。



これらの実現のため、近距離海底ケーブルの敷設を行なうこととなったが、昭和27年末までに敷設された実績を示せば次のとおりである。

無装荷搬送ケーブル 10条 延長150km
近距離海底線 86条

この近距離海底ケーブルは、従来、通信の途のなかった離島への新設、既設区間
の増設、多心に取替えのものなどの総数である。この敷設条数の約58%は5km以内の短距離で、なかには局間中継用200対ケーブル、区域合併用100対ケーブルも含まれており、海底線に市内ケーブルの性格が濃く現われてきた。

戦後、数多くの困難を克服して、最初に長距離幹線ケーブルの一部として海峡横断用に敷設されたのは、昭和22年津軽海峡(石崎〜当別間)の16心ゴム鉛被搬送ケーブルであった。

津軽海峡には戦争末期、すなわち昭和19年、2対特殊GP搬送ケーブルが敷設され、初めて本土〜北海道間に海底ケーブルによる電話連絡が開始されたが、通話が輻輳し、ケーブルを増設しなければならなかった。

このゴム鉛被ケーブルの設計では、次のような困難な制約を受けた。

第1の問題点は、敷設船に関してであった。戦争中大型敷設船を全部喪失し、小型船や仮装敷設船により敷設しなければならないことであった。すなわち、津軽海峡は海深の最深部230m、潮流の最大3.5ノットで、ましてやこれらの船による敷設では従来にない大難所なのである。

(注)朝鮮海峡は最深170m潮流最大1.7ノット。

またケーブルについては、搬送GPケーブルによるか、鉛被紙搬送ケーブルによるかが各方面から検討され、その結果、鉛被紙搬送ケーブルを採用することとなり、戦災被害の比較的軽微な古河電工に発注した。

敷設上の要求条件は、ケーブル重量6トン/km(空中重量82トン/km)以下、ケーブル屈曲試験の許容彎曲限度は直径2mとし、在来の障害原因にかんがみ、接続部分、防水壁部分の強化を重視した。
ケーブル重量減少のためニ重被鉛を避け、古河社がかねてから研究開発していたゴム鉛被を採用し、鉛被量約40%、ジュート約20%が節約され、総重量において約10%の軽減となった。このケープルは、鉛被上にゴムを被覆する方法がとられているが、ゴムと鉛被を一体化するため、鉛被上に縦方向の多数の溝をつけ、接着剤でこれにゴムを密着させたものである。このゴム鉛被ケーブルの長所のもう一つ、キンクが起こりにくいことである。

本ケープルは昭和22年6月1日、釣島丸により無事敷設を完了した。
同種のケーブルは、その後、次の区間に敷設された。

昭和23年 紀淡海峡 1.2mm 28対ゴム鉛被搬送ケーブル
昭和11年 鳴門海峡 1.2mm 28対ゴム鉛被搬送ケーブル
昭和25年 豊後水道(四ッ浜〜安岐間) 1.4mm 14対ゴム鉛被搬送ケーブル


また昭和26年にはわが国最初のPolyethylene(PE)海底ケーブル、すなわち1.6mm8対搬送PE海底ケーブルが、釣島丸を使用して噴火湾(砂原〜室蘭間)に敷設された。同線はPE絶縁、クワッドとし、その上をPEシースで被覆したものである。

(本文は「海底線百年の歩み」海底線施設事務所編より引用しました)


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