海底線まめ知識

第15話: 「わが国海底線通信の沿革」  ―昭和時代―

時代は怒涛の昭和へと入ります。

昭和7年、6対線輪装荷鉛被紙海底線を隠岐島前〜島後間に敷設した。当時、諸外国では線輪装荷が盛んに使用され、わが国においてもこれを試用する気運が熟し、昭和5年、英国シーメンスブラザース会社製品を輸入したのであるが、使用前、線輪装荷鉛被部にピンホールがあって絶縁低下をきたした。

そこで線輪装荷部を解体し、これを住友電線で修理し、長崎西泊工場で再鎧装のうえ、昭和7年南洋丸で敷設した。この前年、本土〜隠岐間に4心入平等装荷鉛被紙海底線を敷設していたので、本線をこれと連絡させ、東京〜島後通話を開始した。

当時、海底ケーブルは外国製と国産品を混用していたが、国内でも漸次外国品に比肩する優良な製品を得るにいたったので、海底線(GP線も)はすべて国産によることに方針を定め、昭和5年9月、住友、古河、藤倉3社に対し海底線工場の建設を慫慂した。

すなわち、1年間の需要高を200海里以上とし、工場設備の要件、購入単金の提出を求めた。経営は3社合弁も可としたのであるが、3社は個々に回答を出した。その内容を検討の結果、昭和6年6月、住友に決定した。

昭和7年、住友は大阪安治川左岸に工場を新設し、生産を開始した。のち昭和10年には住友、古河、藤倉の3社が共同出資して、日本海底電線株式会社を設立した。

昭和8年当時、吉見〜岩南間には1心入5条、2心入1条の海底線があり、これに搬送式多重(4通信路)電信装置及びボーダスリレー電話装置を取り付け、内地〜京城間通話が行なえるようになった。須々木愛吉は図表式交流試験法を案出し、いかなる種類の障害に対しても、その位置を確定し得ることに成功した。

外国製海底線は昭和9年購入の14対平等装荷鉛被紙海底線が最後で、その後、紙絶縁鉛被海底線は住友、古河、藤倉各社が、またGP海底線は住友電線製造所(10年以後は日本海底電線株式会社-前述)が製作したので、逓信省を含めたこれら3社の共同による技術進展に伴う調査、設計および製造上の総合研究が実を結び、世界海底線史上にーエポックを画す事業が実現するにいたった。

それは昭和9年敷設の同心型パラガッ夕絶縁海底線と、11年および12年敷設の無装荷鉛被紙海底線の製造ならびに工事である。これよりさき、昭和6年満州事変が勃発し、満州国が誕生するに至り、日満間通信連絡が急遽必要となり、国際無線電信会社と満州電信電話会社間に東京〜新京間無線連絡が開始された。これが日満間電話通信の先駆をなし、満州一円より日本内地および台湾に達する通信を可能ならしめた。しかしながら、この無線電話連絡も日満関係の進展に伴い、通信の増加に応ずることができなくなり、有線連絡の必要を痛感するにいたった。この要求に応えたのが松前重義、篠原登による純日本式無装荷搬送方式で、14対無装荷鉛被紙海底線の完成によってこれが実施されるところとなった。

昭和7年2対平等装荷GP線が尾崎〜岩南間49海里に敷設され、9年、同心型パラガッタ線が女麗〜猿払間44海里に、次いで同年、14対平等装荷鉛被線が備讃海峡王越〜渋川間5海里に、また11年、28対無装荷搬送鉛被紙海底線が小野田〜苅田間に、12年、14対無装荷搬送鉛被紙ケーブルが朝鮮海峡に敷設された。いずれも国産品であるが、特に無装荷搬送ケーブルは、この興隆期に出現して、世界通信技術の水準を遥かに抜いたものであった。

また当時、世界の注目を集めた新鋭敷設船東洋丸が建造され、わが国海底線事業のうちでも最も華やかな時代であった。

この気運をさらに進展させたものは、昭和13年に長崎、済州島、上海を経て台湾に至る電話線路の測量および調査であった。技師中村弥太郎を団長とし、吉村克彦技師を副団長として小笠原丸で約2カ月聞にわたる作業が続けられた。その結果、回線構成の検討を完了して、海底ケーブルおよび線輪装荷の試作に成功したが、遺憾にも時運到らず、ついに実現をみるに至らなかった。

昭和13年には永年事業に従事した沖縄丸が老齢のため売却されることとなり、船列を離れた。関係者一同は惜別の情尽きず、同船を神戸港で見送り、感慨無量であった。ここに当時担当者が上司に報告した一文を紹介する。

40有余年に亘る沖縄丸最終の工事も予期以上の好成績にて終了し、殊に今回は伊勢神宮、琴平神社の参拝をなし、以て工事の結びとなし得たるは誠に天祐を得たるものと存候。斯くして、同船は本省御指定の如く、昭和13年4月25日午後3時、神戸に入港し長き航海を終ることと相成申候。吾等一同、同船に於ける最終の工事を命ぜられ、其の有終の果てを見ることを得たるは業に就くものとして最も光栄に感ずる次第に有之候。茲に航を終るに当り沖縄丸に対し無限の感謝を捧ぐると共に、同船新造以来歴代上司の致されたる御高配に対し感謝の意を表するものに御座侯。


同船はわが国最初の敷設船であり、沖縄経由内台間海底線敷設をはじめ、日露戦役以後、幾多重要工事を遂行し、軍事通信にも多大の貢献をしたが、海難事故もなく、まことに運のよい船であった。しかし惜しいことに廃船前年、昭和12年8月13日、長崎〜上海線修理のため上海に碇泊中、支那空軍に襲われ、その投下爆弾が舷側で爆発し、死亡1名、重軽傷者数名を出すという不幸があった。当時日支関係は一触即発の危機をはらみつつあったが、あえて危地に臨み作業に従事していた結果である。

日支事変は第2次上海事変に発展し、ついに第2次世界大戦に突入した。電信電話拡張計画は順次軍事国防を最重点として改定され、昭和16年、対米宣戦布告とともに戦時型となった。また戦局の進展に伴い、陸海軍より軍用海底線の増強が要請され、既設ケーブルを軍用通信に利用するはもちろん、制式海底線敷設船3隻のほか、多数の民間会社貨物船を徴用し、仮装敷設船として次々に改装した。香港には逓信省海底線出張所を設置し、通信省から海底線技術者、通信要員、運航要員を軍属として多数派遣した。しかして広範な大東亜海域、すなわち遠くは赤道以南に及び、東西1万3,000海里、南北6,000海里にわたって海底通信網の建設、保守、修理のため全カをあげてその責務を遂行し、軍の作戦通信に寄与すること多大なものがあった。終戦近く、東洋丸、南洋丸、小笠原丸の制式敷設船および多数の仮装敷設船は敵の潜水艦、機雷、飛行機の攻撃により撃沈され、百数十名にのぼる優秀な技術、通信、運航要員が敷設船と命運をともにしたことは、実に遺憾の極みであった。

一方、開戦と同時に外国、外地に至る海底線通信は朝鮮海峡を除き次々に停止されていった。またこれよりさき昭和13年、日本無線、国際電話の両社を合併し、国際電気通信会社を設立し、対外通信施設(有線、無線ともに)の建設、保守を行なわしめることとなり、該当の海底電話ケーブルはすべて同社に移管された。

昭和15年5月、大北電信会社に対し新免許状を付与し、
(1) 会社海底線の長崎端の運用は昭和15年6月1日より逓信省が行なう。
(2) 会社の海底線の長崎における陸揚権は昭和18年4月30日までとする。
ことに決定した。

会社海底線陸揚権の消滅とともに、会社の財産を3カ月以内に処分することになっていたが、当時の戦争状態から、その延期方の要請があったので、逓信省は好意的に会社の財産を保管することとなった。

わが国の海底線網は戦争のため壊滅的打撃を受け、終戦後のケーブル条数は291条、線長約4,600kmで、戦前の約3割、心線延長では3割8分となり、国内線のみとなって海底線事業は大幅に縮小した。

対外ケーブルの帰属については、対日講和条約で次のごとく取り決められた。

(1)日本を基点として、外国または本条約により日本の管理下から除外された領土と直接結ぶ海底ケーブル(24条、5,306海里)は、日本と相対する諸国問でそれぞれ等分に分割保有する。

(2)外国内または本条約によって日本の管理下から除外された領土内に敷設された海底ケーブル(17条、1,019海里)は、ケーブル敷設海域を領有するそれぞれの国家が単独に保有する。

(3)米国の施政権下にある海底ケーブル(10条3,123海里)は、現在米国の施政権下にある沖縄、小笠原の海底にあるため、その返還とともに帰属が決められる。

終戦後の対外ケーブル関係エ事としては、昭和25年、朝鮮海峡第2無装荷搬送鉛被紙海底ケーブルの修理復旧以外にはなく、また長距離のものとしては、昭和28年、奄美大島復帰に伴って、翌29年同方面の海底ケーブルを修理、復旧したに過ぎなかった。なお、大浜(鹿児島)〜奄美大島聞のケーブルは、永年使用のため障害続発したので、昭和42年、これを全部撤去した。

(本文は「海底線百年の歩み」海底線施設事務所編より引用しました)


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