海底線まめ知識

第14話: 「わが国海底線通信の沿革」  ―大正時代―

わが国海底線通信の沿革について、シリーズでひも解いています。時代は大正に入ります。

大正元年、紀淡海峡友ケ島に軍用通信線で鉛被紙海底線が敷設されたが、これは本邦における鉛被紙海底線として最初のものであった。

大正3年(1914年)第1次世界大戦が勃発(6月28日)し、わが国も参戦するに至り、初めて外国所属の海底線に手を触れることとなった。すなわち、対独宣戦(8月23日)が布告され、作戦上、急速ドイツ所属上海・青島線を沙尾山(揚子江河口崇明島東方数海里にある小島)沖で、長崎から沙尾山まで敷設した海底線と接続し、長崎・労山湾(青島付近)線を作成して、青島攻略に大きな功績をたてたのである。

次いで本邦長崎・上海線が完成し、大正4年1月1日から上海へ和文電報の取扱いを開始した。その経緯の概要は次のとおりである。

明治15年大北会社に与えた免許状による独占権は、明治45年(1912年)12月28日にその30年の期間を満了するので、これを機会に逓信省は日本と大陸との通信関係の飛躍的発展の大構想を練っていた。その主要点は、日本政府の長崎・上海線の新設、日露連絡線の作成、料金の改訂、川石山線および芝罘線の国際通信への解放であった。以上のうち、最初の三つは不本意ながらも目的を達したが、最後の一つは、大北会社が中国において有する独占権のため実現できなかった。すなわち、大北電信会社にわが国が許可した独占権は、明治45年に解消したが、当時の中国政府が大北会社に与えた権限は昭和5年(1930年)末までであったので、その海底線をわが国が敷設するには、大北電信会社との折衝を必要とした。外交交渉の結果、大正2年10月4日ようやく妥結に達したが、その要点は次のようなものであった。

(1)両国間通信より生ずる日本および大北電信会社の取分を、昭和5年末日まで合併計算とすること
(2)その分配率は過去3年間の実績による大北電信会社の収入を補償すること(注)日本35.4%、大北64.5%の割合
(3)日本政府の敷設する海底線は、長崎〜上海間に限り、かつ官報の和文電報のみを取り扱うこと

以上のとおり、結果はわが国にとってきわめて不利なものであった。ここにおいてわが国は、上海線1条を作成するために18年間にわたる合併計算を承認することとなり、新線から生ずる海底線料金の大部分を大北会社に支払うという一大牲犠を払った。

この海底線の上海端は上海日本郵便局に引き込み、大正3年(1914年)12月に竣工させ、翌4年から正式に通信を開始した。

外国和文電報取扱開始は釜山が最初で、次が芝罘、上海は第3番目である。

大陸経済の中枢である上海には、日本居留民が多数いたので、この和文電報取扱いは大きな喜びとなった。

上海と日本との関係は、本線開通によってますます接近し、両国間の政治的、経済的関係の発展に多大の貢献をした。

電報通数は最初1日平均200通内外であったが、間もなく第1次欧州大戦が始まり、逐年急角度に上昇した。日支事変直前の通数は1日900通に達した。

本線の宝山陸揚権は昭和5年(1930年)大北会社の独占権消滅の年に満了することとなっていたので、政府との折衝を開始した。その結果、陸揚権を(1)さらに14年間延長すること、(2)上海電信局の受付配達業務を中国側に回収すること、に意見の一致をみたが、中国側の内部事情で調印不可能となり、首尾料を増額し、上海局の受付配達の費用を中国側で負担することとなった。その他は現状維持のまま、昭和12年の日支事変に及んだ。前述のとおり独占権は消滅したが、大北会社線の日本対外通信上占める地位は軽くなることなく、その後も長い間にわたってわが対外通信の大部分を疏通し、重要な役割を演じていた。そればかりでなく、一方において徐々に発達してきた日本無線通信に対しても、大北会社の存在はさまざまな意味から、その発達の大きな障害となっていた。


大北会社経由電報通数 日本外国電報総通数に対する割合:%
大正4年(1915年) 56万通 63
大正14年(1925年) 134万通 50
昭和10年(1935年) 75万通(無線発達により減少) 30

上記のとおり、大体大正末期までは60%以上が大北会社を通過しているのである。

第1次世界大戦の際、日本軍は旧ドイツ海底線を利用して大正4年、佐世保〜青島間に軍用線を敷設し、軍用電報を取り扱うかたわら、日本〜青島間の一般商業電報を取り扱った。

本線を正式に国際線にするためには、政府との間に協約の要があった。山東問題は当時国際外交上の難問題であったため、一般問題の解決が遅延し海底線のそれも遷延した。約10年の年月を経て、大正14年(1925年)ようやく協定を結び、佐世保・青島線は両国でそれぞれ一半を所有し、かつその維持に当たり、青島端の運用は中国側の費用で日本に委託された。ただし受付配達は中国側が行なうこととなった。

かくして佐青線は正式な国際電信線となり、両国間には大北会社線、日本政府上海線のほかに有カな一幹線を加えることとなった。この協定に対し、大北、大東両社は、その独占権に対する違反であり、また日本との合併計算協定に反するという理由で抗議し、日本は本線による収入を合併計算に繰り入れることを承諾した。

ここで創業後大正4年までに海底線関係施設に投下された資金等が、大正5年の逓信省工務局調査の資料で明らかになっているので、紹介することとする。

明治2年(1869年)本邦電信事業創業以来、大正4年度末(1915年)にいたる47年間に、電信線路建設と機械装置等の工事支出額を累計すると1,904万4,527円※に達している。このほかに大正4年までの間に海底線関係費用として次のごときものが支出されている。
イ.海底電線の買収費
ロ.海底電線敷設船建造費
ハ.臨時軍事費または借入金をもって新設および増設した海底線の敷設工事費
ニ.その他、日清・日露戦争の際、軍事費をもって敷設した海底線のうち、平和回復後、その筋から引き継ぎを受けた海底線の敷設工事費該当額
以上の海底線部門に投下した資本の概算額は1,232万5,385円に及んだ。
これに※の金額を合計すると、電信工事に投下した総資本は3,141万9,912円となる。
このうち海底線関係への投資金額は上記のごとく1,232万5,385円であるから、総資本に対する割合は0.39、すなわち約4割が海底線に投下されていたこととなり、相当海底線の新増設にカを入れていたことが推察できる。
大正7年(1918年)11月、第1次世界大戦の講和条約が締結されたが、その間、那覇・ヤップ線(1,557海里)の構成、長崎〜淡水間2号線の敷設(698海里)が完了した。

戦後、わが国の商主業の好況に伴う電報の輻輳は、国内はもちろん対外、特に日米間では異常な遅延をきたしているので、これが救済のため、日米間直通海底線増設計画が成案され、日米電信株式会社を設置することが企てられた。

その目的の概要は次のとおりであった。

発起人渋沢栄一、内田嘉吉両人の提唱により、大井、浅野両博士、海軍水路部長、その他海底線権威者で実施計画を進め、大正8年7月次の結論を得た。
すなわち、ルートは小笠原島、ロングリク、ホノルルを経てサンフランシスコに至る7,510海里を決定した。通信は1分間二重91字、所要経費4,238万円、電線製造期間2カ年、工事期間2カ年と予定した。

本計画実現に奔走中、米国商業太平洋電信会社からも在来線を複線とすべく許可の申し出があり、行悩み状態であったが、大洋横断無線通信が可能の情勢となり、日米電信株式会社の設立を中止して日本無線電信会社を創立することとなった。

大正10年(1921年)、南満州鉄道株式会社は長崎〜大連間(661海里)に海底線を敷設し(工事は逓信省に委託)、その運用を逓信省で行なった。
このころ、時運の高揚目ざましく、大正11年11月には中国政府の上海〜芝罘間520海里のGP海底線製造および敷設がわが国の技術により完成された。

ゴム絶縁海底線は、大正4年来すでに国産化されたが、GPによるものはこれが初めてであった。この海底線は中国政府交通部、古河電気工業株式会社との契約によるもので、大正10年6月製造に着手、翌年6月完了、ひきつづき同年5月から11月の間に仮装敷設船久満加多丸(1,343トン)で施行、優秀な成績を収めて翌12年2月、交通部に引き渡された。本工事はもちろん古河電気工業株式会社の功績であるが、契約実現には、当時交通部顧問であった中山龍次、逓信省工務局長稲田三之助、電信課長高田善彦らの多大の尽カがあった。
またこの実現は、東洋における大北、−大東両電信会社の因縁を断つ第一歩を確保したといえる重大な意義をもつものであった。
なお、本線の一部を10数年後に撤収したが、撤収線の92%が再用可能であったという優秀な製品であった。
大正11年、備讃海峡に8対平等装荷鉛被紙海底線(6海里)が敷設された。住友電線製作所製造によるもので、逓信省使用の鉛被紙海底線の嚆矢である。

大正12年にはGP絶縁4心入平等装荷海底線が古河電気工業株式会社において製作され、因島〜向島間に敷設され、つづいて大正15年には石崎〜当別間に平等装荷海底線(36海里)、昭和4年には明石および鳴門海峡に14対平等装荷鉛被紙海底線(6海里)が敷設され、以来、昭和初期にかけて各所に次々と国産または外国製の平等装荷海底ケーブルが敷設され、平等装荷電話海底ケーブルの全盛時代を現出した。

大正末期までは、海底線はほとんど電信用で、電話用は約20%、線長延長はわずか1.3%に過ぎない状態であったが、平等装荷ケーブル全盛時代からは、いよいよ電話用海底ケーブルの時代へと移っていく。
大正12年には大阪鉄工所で海底電線敷設船南洋丸が建造され、一大偉カを加えた。関東大震災の際、沖縄丸、小笠原丸とともにケーブル修理に、罹災者救護に、また輸送にと、大童の活躍をした。

(本文は「海底線百年の歩み」海底線施設事務所編より引用しました)


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